ドラマ「デフ・ヴォイス」で注目、ろう俳優の軌跡(前編)

2023年末にNHKドラマ「デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士」で、無学のろう者「菅原吾朗」役の好演で注目を集めた俳優の那須英彰さん。NPO法人インフォメーションギャップバスターの伊藤芳浩理事長が那須さんの生い立ちや俳優になったきっかけなどについて話を聞きました。

ろう俳優の那須英彰さん(右)とインフォメーションギャップバスターの伊藤芳浩理事長

■こっそり使い、競争で磨いた手話

ーー手話との出会いはどのようなものでしたか。

両親は聴者(きこえる人)です。私は2歳の時に高熱で失聴しました。ストレプトマイシンで失聴した子どももいますが、私の場合は高熱が原因でした。その後、すぐに山形聾(ろう)学校に入学し、週に1、2日は口話訓練を行いました。本来は母親と一緒に通学する義務がありましたが、家庭の経済状況が厳しかったため、学校と相談の上で祖母と一緒に通学することになりました。

当時の山形聾学校では手話が禁止されていましたが、中高生や専攻科(*1)の生徒たちは手話を使っていました。バスの中でろう児を持つ母親たちは彼らが話している場面を子に見せないように行動していたように見えました。私は先輩たちとのコミュニケーションに恵まれ、大切にしてもらえました。

3歳からは毎日通うようになり、小学1年の4月末までは祖母と一緒に、それ以降は一人で通学しました。通学中は先輩たちと手話で話していましたが、先生がいても怒られませんでした。暗黙の了解だったと思いますが、そのため、手話が上達していきました。

小学4、5、6年生の時には、同級生二人と私だけで手話表現の競争を行いました。CL表現(*2)やVV(*3)の技術を磨き、手話の技術が高まりました。同級生と競争したおかげです。

(*1) 多くは職業学科の形で設置されており、当時は、理容・美容、歯科技工、木工、被服などがあった。

(*2) CL表現(Classifier Expression)とは、手話における特定の形式の表現を指します。CL表現は「分類子」とも呼ばれ、手話において物や人、動作、場所などを具体的に描写するために使われます。これらの表現は、形状、大きさ、動き、位置などを視覚的に示す手の形や動きによって構成されています。

(*3) VV(Visual Vernacular、ビジュアル・ヴァーナキュラー)とは、手話を用いた視覚的な芸術表現です。言葉や文法に依存せず、身体の動き、手の形、表情を組み合わせて物語や情景を創造します。VVは、ろう者のコミュニティにおいて、詩、物語、演劇などの創造的な表現として用いられ、視覚的なストーリーテリングの手段として重要な役割を果たしています。

VVの例:那須映里さんからの応援メッセージ「手話で表現することに挑戦してみよう!」【インフォメーションギャップバスター子どもたちを笑顔に透明マスク啓発プロジェクト】

■交換日記が日本語上達のきっかけに

ーー日本語はどのように上達したのでしょうか。

実は、私は小学校から国語が苦手でした。例えば「怒られた」という単語の意味が理解できませんでした。「怒る」はわかりますが、「られる」の部分が理解できなかったのです。

実は、日本語が上達したのは交換日記のおかげなのです。

小学4年生の時、私はある聴者の美人な女子高生が好きになりました。ろう学校の高等部にいたリーゼントの先輩が、山形手話で彼女のことを「美人だね」と言ったからです。私も同じように感じていました。

先輩に「アタックしろよ」と命じられましたが、最初は「無理!」と思いました。しかし、「お前は心が小さい。弱すぎる」と言われ、むきになって「わかりました。やります」と答えました。

それで私は彼女に声をかけ「ぼくはあなたの友だちになりたいと思います」と不明瞭な声で言いました。最初は会話が成り立たず、彼女はバスの窓に息を吹きかけて筆談をしようとしました。でも、窓を使った筆談を続けるのはやめ、「交換日記をしませんか」と提案されたのです。

スタートは彼女からでした。私は日記を受け取り、早速返事を書くことにしました。日本語が下手だったので妹に手伝ってもらおうと考えました。私が言いたいことを手話と音声で伝え、妹がそれを見て日本語で書きます。妹が書いた日本語を私が交換日記に書き写すという形です。

妹との間の秘密でしたが、その後、妹とした喧嘩が発端で交換日記をやっていることが母にばれてしまい、「これからは自分でやりなさい」と言われました。

ともかく、交換日記は順調に続きました。彼女が赤ペンで私の日本語を直してくれ、そこから日本語の勉強を本格的に始めたのです。読書や、様々な言葉の使い方のアドバイスをもらううちに日本語が上達していきました。聾学校の国語の先生は、私の日本語が上達しているのを不思議に思っていたそうです。

■山形の手話から全国の手話へ

ーーろう学校での口話主義は、あなたにどのような影響を及ぼしましたか。

山形聾学校は口話主義(*4)であったため、授業の内容が遅れがちでした。私が中学2年生の時、小学校6年生の教科書を使っていました。英語だけは中学1年生から始めました。そのため、国語や数学は小学校6年生の教科書を使うことになりました。

先生が私の学力を評価してくれたためか、筑波大学附属聾学校(現・筑波大学附属聴覚特別支援学校)へ行くことを勧められました。すごく嬉しかったです。

というのもテレビで刑事ドラマ「太陽にほえろ」の最初に出る映像シーンで、新宿の高層ビル群が出ているのを見て、前から行きたかったからです。東京に行けると思うとぜひ、通いたいと思いました。

ただし、筑波大学附属聾学校に入学するには入試があります。親と相談して山形大学の学生に家庭教師として来てもらい、簡単な手話でのやり取りをしながら試験勉強を始めました。そのかいあって無事合格することができました。

入学してわかったのは同級生の手話が、私が使ってきた山形の手話と違うことでした。全国各地の聾学校から入って来た同級生はそれぞれ、その地方の手話を使っていました。それだけでなく、日本語対応手話(手指日本語)使用の同級生もいて、私は手指日本語が全く分からなかったため、最初は苦労しました。

しかし、学校生活に慣れるにつれ、自然とグループが一つにまとまるようになり、とてもいい雰囲気の学年になっていきました。

恩師であるろう者の伊藤政雄先生からは、日本手話をそのまま使い続けるようにアドバイスされました。私はそのアドバイスに従い、ブレずに日本手話でやってきました。伊藤先生の真似をして周囲を笑わせました。当時、手指日本語で話していた生徒学生たちの中には、社会人になってから日本手話を使うようになった人もいました。

(*4) 口話主義とは、ろう者や難聴者に対する教育方法の一つで、口話(口で話す言葉)と唇読みを重視し、手話の使用を制限または禁止する教育方針です。しかし、ろう者や難聴者にとって、口話と唇読みは自然なコミュニケーション手段ではありません。このため、教師の言葉を理解し、自分の考えを表現するのが難しくなります。これにより、学習の効率が下がり、遅れが生じることになります。

■ろう俳優として踏み出すきっかけは2人の「師」

ーーどのようなきっかけがあって俳優の道を歩むようになったのですか。

4歳ぐらいの頃だったでしょうか。親にチャップリンの映画に連れて行ってもらったのがきっかけです。チャップリンの白黒の、無声映画は視覚的に理解できました。彼の動きや行動、表情に魅力を感じ自分も同じように演技をしたいなぁと思うようになったのです。

それを思い出して、ろう学校の同級生に自分の演技を見せたところ、笑ってもらえたのが嬉しかったですね。

小学部の時は、声付き手話での演劇経験があるのですが、大きな違和感がありました。でも、筑波大学附属聾学校高等部時代に文化祭で希望者のみの演劇をやったとき、演技の指導をしていただいた伊藤政雄先生のお陰で、手話劇が楽しくなったのです。伊藤先生は、私に演技を続けるよう励ましてくださいました。今思うと、俳優としての原点は高等部で形づくられたと思うので、伊藤先生には本当に感謝しています。

大学入学と同時に演劇を始めてはどうかと勧められました。大学が青森でしたので、青森で唯一のろう者劇団である「ろう劇団 青い森」と故・米内山明宏さんが当時代表をつとめておられた「日本ろう者劇団」を紹介してくださいました。

大学在学中には、「ろう劇団 青い森」に入団しました。演技はもちろん手話が中心です。全国のろう者劇団が集まり、合同合宿も行いました。栃木のろう者劇団「パピヨン」には私の妻が結婚前まで在籍し、代表を務めていました。岐阜には河合依子さんが所属する劇団「いぶき」もあります。これらの劇団が集まり、会議や合同合宿を行っていました。

その合同合宿で再会した米内山さんの目の前で一人芝居を披露したところ、とても楽しんでいただけました。交流会で「あなたの両親はろう者?」と尋ねられ、「いいえ、聴者です」と答えると、とても驚いていました。その後、米内山さんからファックスが届き、入団を勧められ、入団を決めたのです。

米内山さんからは、演技の基本を学びました。舞台に立つこと、手話の見せ方、位置、手話のスピードやリズム、重みなど、様々なことを学びました。

例えば、「手話 わかりません」をゆっくりと重い感じで表現すると、観る人の印象も変わります。また、「困る」の表現も、早くするのではなく、ゆっくりと重い感じで表現すると印象が異なります。このようなテンポや感情を教わりました。舞台の立ち位置についても、同じ場所にとどまるのではなく、動いてお客様を飽きさせないようにしました。

後編は、「デフ・ヴォイス」での演技に焦点を当ててお話を伺いました。

後編はこちらから

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伊藤 芳浩 (NPO法人インフォメーションギャップバスター)

特定非営利活動法人インフォメーションギャップバスター理事長。コミュニケーション・情報バリアフリー分野のエバンジェリストとして活躍中。聞こえる人と聞こえにくい人・聞こえない人をつなぐ電話リレーサービスの公共インフラ化に尽力。長年にわたる先進的な取り組みを評価され、第6回糸賀一雄記念未来賞を受賞。講演は大学、企業、市民団体など、100件以上の実績あり。著書は『マイノリティ・マーケティング――少数者が社会を変える』(ちくま新書)など。執筆記事一覧

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キーワード: #ビジネスと人権

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