ジミー・カーターは気候変動を最初に認識した米大統領だった

記事のポイント


  1. 米カーター元大統領が2024年12月29日、100歳で亡くなった
  2. ホワイトハウスの屋根に初めて太陽光パネルを設置したことでも知られる
  3. 元大統領の指示した調査で、温暖化を2℃以内に抑える必要があるとの報告書が出た

米国のジミー・カーター第39代大統領が2024年12月29日、100歳で亡くなった。カーター元大統領は、ホワイトハウスの屋根に初めて太陽光パネルを設置したことでも知られる。元大統領が命じた「世界の人口、天然資源、環境に起こりうる変化」に関する調査で、報告書は地球温暖化を産業革命以前から2℃以内に抑えるよう警告した。米メディアは、カーター氏の環境政策がその後の政権交代で覆された歴史を、トランプ大統領の就任を控えた今と重ねて報じる。(オルタナ副編集長=北村佳代子)

1993年当時のカーター元大統領
(C)Rick Diamond

カーター元大統領は南部ジョージア州のピーナッツ農家から政界に転身した。ジョージア州知事を務めた後、1976年に民主党から立候補し、1977年から1981年まで第39代米国大統領を務めた。「人権外交」を提唱し、イスラエルとエジプトの歴史的平和条約を仲介したほか、米国と中国との国交正常化を果たした。2002年にはノーベル平和賞を受賞した。

こうした功績とは別に、現地メディアが報じるのが、カーター氏の遺した環境遺産だ。

米ロサンゼルス・タイムズ紙は12月31日、「ジミー・カーターは地球を救おうとした。石油業界が反撃した」との見出しで、「米国がカーター氏のビジョンに基づいて行動していれば、私たちが直面する気候の未来は、今日よりも悲惨なものではなかったかもしれない」とカーター元大統領の死を悼んだ。

■「省エネ」「再エネ」を推進した

「カーター氏が大統領だった当時、最大の関心事はエネルギー安全保障だった」とニューヨーク大学エネルギー・気候正義・サステナビリティ研究所のエイミー・マイヤーズ・ジャッフェ所長は振り返る。

当時の米国はオイルショックの影響を引きずっていた。カーター政権下の1977年当時、米国は1日当たり881万バレルの石油を輸入し、そのほとんどが石油輸出国機構(OPEC)からだった。

こうした石油供給やガソリン価格に影響を与える地政学上リスクから、カーター元大統領は、早くから省エネや太陽光発電などの再エネの推進を提唱した。

■省エネを呼びかけた「セーター演説」

就任後間もなく、カーディガンを着て暖炉を囲んだカーター氏は、テレビを通じて国民に、省エネを呼びかけた。これは米国人の間で「セーター演説」として知られる。

「私たちは皆、エネルギーを無駄遣いしない方法を学ばなければならない。例えば、暖房を昼間は65℉(約18.3℃)、夜は55℉(約12.8℃)に設定するだけで、天然ガスの不足を半減できる」と語りかけた。

ジャッフェ所長は、「今ではエネルギー効率を考えることは当たり前だ。しかし、1950~60年代の米国人は、石油は常に供給されると考えており、この呼びかけを揶揄する人もいた」と米紙にコメントした。

「しかし当時、エネルギー専門家の間では、石油や天然ガスがいずれは枯渇する可能性があるとも考えられていた。そこでカーター元大統領は代替エネルギーの利用を奨励した」(同)。

■ホワイトハウスに初めて太陽光パネルを設置した

カーター元大統領は、海外への石油依存から脱却するために、米国内での石炭採掘を推進した。1970~80年代には、化石燃料がもたらす環境への負の影響はまだ十分に認識されていなかったが、1977年に「地表採掘規制・埋立法」に署名し、石炭採掘による環境への影響を最小限に抑えようと努めた。

同時に重視したのが太陽光発電の生産拡大だ。「誰も太陽光を禁輸できない。太陽を支配するカルテルはない。太陽エネルギーは枯渇しないし、空気や水を汚染しない。悪臭やスモッグもない」と、太陽エネルギー研究所(米国立再生可能エネルギー研究所の前身)で演説したこともある。

カーター元大統領は、太陽エネルギー戦略を「地球上で最も優れた産業社会を築くことと同じくらい重要な挑戦」だと表現した。そして20世紀末までに、米国の発電容量の20%を再エネで賄うとの野心的なビジョンを持っていた。

1979年には、ホワイトハウスの屋根に初めて32枚の太陽光パネルを設置した。「この太陽光発電は今から1世代後に、人類が歩まなかった道を示す珍品として博物館に展示されているか、米国民がこれまでに成し遂げた最も偉大で最もエキサイティングな冒険のほんの一部として存在することになるだろう」と落成式で演説した。

しかしこのパネルは、1980年の米大統領選でカーター氏を破ったロナルド・レーガン政権下で撤去される。レーガン氏は選挙戦のさなか、「窒素酸化物による大気汚染の8割以上は樹木や植物が原因」と発言したことで物議を醸した。レーガン政権下で首席補佐官に就いたドナルド・T・レーガン氏は、太陽光パネルを「ただの冗談」だと揶揄したという。

その後、オバマ元大統領が新世代のソーラーユニットを2010年に設置するまで、ホワイトハウスに太陽光パネルは設置されなかった。

撤去された太陽光パネルは今、メイン州のユニティ・カレッジの屋根に設置され食堂の給湯に利用されている。そのうち1枚は、その歴史的意義の解説とともにキャンパス内で展示されている。

カーター元大統領は、退任後も太陽エネルギーの擁護者であり続けた。故郷ジョージア州の人口1000人にも満たない町・プレインズで、自身の土地を貸し出し、何千もの太陽光パネルを設置するプロジェクトを監督した。現在、町の人口の半数の需要を賄うのに十分な電力を供給しているという。

■エネルギー省を創設しクリーンエネルギー研究を後押しした

1977年には米国エネルギー省を設立し、クリーンエネルギーに関する最先端の研究を推進した。1978年に署名した国家エネルギー法には、クリーンエネルギーに対する米国発のインセンティブを導入したほか、省エネ促進施策も盛り込んだ。

また、ニクソン政権下(1970年)に創設された環境保護庁(EPA)を強化したのもカーター元大郎良だ。初めて自動車燃費基準を設けるなど、大気汚染対策を強化した。

しかし、その後のレーガン政権は、クリーンエネルギーの研究予算を削減し、風力発電に対する減税措置も廃止した代わりに、化石燃料に傾倒した。燃費基準を緩和して、ガソリンを大量に消費する自動車・トラックの時代へと突入する。

■アラスカでの土地保全など、自然保護にも尽力した

カーター元大統領は、国立公園局の管理する土地面積を倍増したことでも知られる。

なかでもアラスカでは、1978年に5600万エーカー(約23万平方キロメートル)の原生地域を保護区に指定した。反発した一部の住民はカーター氏の肖像画を燃やした。

1980年11月の大統領選で、カーター氏のアラスカ州でわずか26%しか得票できなかったが、退任前の翌12月には、アラスカ重要国有地保全法(ANILCA)に署名し、1億5700万エーカー(約64万平方キロメートル)以上を野生生物保護区や国立公園に指定した。カーター氏自身はANILCA法を「最も優れた自然保護法の一つ」と考えていたという。

しかしその後、2000年頃になってアラスカ州で10億ドル規模の観光産業が花開くと、住民はカーター氏の過去の施策を画期的な功績と評価するようになる。カーター氏が2000年に同地を訪問した際には、スタンディングオベーションで演説が5回も中断されたとのエピソードも残る。

■「産業革命以前から2.0℃以内に抑える必要性」を説くレポートが出る

ジョージア州知事時代の1972年、科学誌「ネイチャー」に、大気中の「人為的な二酸化炭素と温室効果」に関する画期的な論文が発表された。カーター氏は当時、この論文に目を留めたと米タイムズ誌は報じる。

大統領に就任すると、すぐに「世界の人口、天然資源、環境における起こりうる変化」に関する調査を命じ、ホワイトハウスの環境品質評議会(CEQ)がレポートを3つ発行した。最後のレポートは、当時、一部の科学者らが「二酸化炭素汚染」と懸念していた長期的な環境への脅威について報告したもので、カーター氏の退任直前の発行となった。

その報告書は、化石燃料の燃焼が、世界の気候、経済、社会、農業に広範囲かつ長期にわたって変化を引き起こす可能性があると警告した。そして、リスクを回避するには、世界の気温上昇を産業革命前の水準より2℃以内に抑えるべきだと勧告した。

この勧告は、それから35年後の2015年、国連気候枠組条約(UNFCCC)に加盟する196か国が合意したパリ協定の内容と一致する。なおその後、2021年のCOP26(国連気候枠組条約第26回締約国会議)で、パリ協定では努力目標とされていた「1.5℃」を、事実上の目標とする決意が示され、今に至る。

■カーターとレーガンは、バイデンとトランプに似ている

カーター氏の大統領時代の環境施策は、その後のレーガン、ブッシュ政権で見向きもされなかった。

米国では間もなく、気候変動に懐疑的なトランプ大統領が就任することもあり、複数の米メディアはカーター氏の環境遺産が辿った歴史を今と重ねて報じる。

ニューヨーク・タイムズ紙は1月2日、「トランプとバイデンを理解するには、レーガンとカーターを見よ」との見出しで、「次の4年間の展開を見通すには、カーターの環境遺産を振り返り、レーガンの規制緩和の中で何が生き残ったかを考える価値がある」と報じた。

米インサイド・クライメート・ニュースは、「1980年の大統領選挙で、レーガンがカーターに圧勝したことは悲劇的な意味合いを持つ」と振り返る。CEQの報告書に積極的に対応したカーター氏が「もし再選していたら、3つ目の報告書の内容にも対応していたであろうことはほぼ確実」だからだ。

そして「その後12年間のレーガン政権とブッシュ政権下で、米政府は地球温暖化を研究する価値はほとんどなく、ましてや対策を講じる価値はまったくないとみなした。政治的な勝利がなければ、より良い未来を実現するチャンスは簡単に逃げてしまう」と論じた。

ニューヨーク大学のジャッフェ所長は、「カーター政権下での代替エネルギー政策が、その後も安定して継続されていれば、今ごろ米国は再エネ分野で世界をリードしていただろう。しかし現実は、風力発電でデンマークやスペインに、太陽光発電や電気自動車では中国に後れを取っている」と惜しむ。

北村(宮子)佳代子(オルタナ副編集長)

北村(宮子)佳代子(オルタナ副編集長)

オルタナ副編集長。アヴニール・ワークス株式会社代表取締役。伊藤忠商事、IIJ、ソニー、ソニーフィナンシャルで、主としてIR・広報を経験後、独立。上場企業のアニュアルレポートや統合報告書などで数多くのトップインタビューを執筆。英国CMI認定サステナビリティ(CSR)プラクティショナー。2023年からオルタナ編集部。

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キーワード: #気候変動

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