オイスカは震災6日後の2011年3月17日には林野庁に「海岸林再生に協力したい」旨の文書を提出。4月13日には宮城県名取市の出身者が東京のオイスカ本部を訪ねています。私は当時明治学院大学の教授で、ボランティアセンター長をしており、学生をランクルに乗せて被災地の緊急支援に向かいましたが、仙台入りしたのが4月4日でした。大学としては全国で一番早く、泊まるところ探しにも苦労しました。それだけにオイスカの始動の早さに驚きます。

オイスカは5月24日には現地で初会合、プロジェクトが動き出しています。植林の場所は宮城県名取市で、太平洋に注ぎ込む名取川の南側から仙台空港近くまで。北にある景観自慢の松島とは違って長い海岸線が伸びています。海に沿って南北に長さ5㌔、幅200㍍。面積はざっと100㌶といいますから、サッカーグラウンド140面分のとんでもない広さのところに10年間で37万本植えます。

本来なら公共事業の規模ですが、民間が実施するところに意味があるということで、経費の10億円は全額寄付で集めることになりました。それだけに苦労も多かったのですが、多くの社会問題を抱えながら人口減に直面している日本の地方の未来を考える時、示唆するものはたくさんあります。

海岸のクロマツは江戸時代にも植えられており、防潮林、防風林としての役割を果たしてきました。松葉はかつて貴重な燃料でした。葉っぱをかき集めるのを「松葉さらい」といい、主に女性の仕事で若いお嫁さんたちの息抜きの場でもあったようです。飢饉の時は松の木の皮をはぎ、米や大豆と混ぜて「松皮餅」がつくられました。マツカサはストーブで燃やす燃料になるし、キノコも採れます。

被災した地元説得に苦労

それにしても、本を読むと、挫折の連続だったことがよくわかります。松林の再生は人の心、人の輪の再生であり、地域の再生そのものです。簡単にいくわけがないのです。

当初はオイスカ内部でさえ、「うちの団体は国際協力が本職だし、人も予算もギリギリで、そんな余裕はない」という反発の声があがりました。

現地では「震災で失われた松林を地元のみなさんと一緒に再生したいので協力してほしい。苗木づくりは被災農家にお金を払って仕事としてやっていただく」と必死に説得しましたが、被災で混乱していた地元の人々の心に響くのには時間がかかりました。説明会の席では無理解、反対も多く、「100町歩は大きすぎて手に負えない」「うまいことを言って被災者をもう一度被災させるつもりか」という厳しい声さえ出たといいます。

岩手県陸前高田市でいわゆる「奇跡の一本松」が津波で残りましたが、逆に言えば、この1本以外の7万本が全滅したということです。松では防潮林としては無理があるのではないかという議論が起こっていました。名取ではかなりの松が流失せずに残ったものの、流された木が内陸の住宅や農地を傷つける凶器となった例もあり、松はすっかり悪者になっていたのです。

津波でもかなり残った名取市の海岸の松林、右上が仙台空港(2011年3月12日、仙台沖上空から撮影)

盛り土すれば海岸でも根を張る

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