アフガニスタンでNGO(非政府組織)、ペシャワール会(福岡)現地代表の中村哲医師が12月初め、何者かに銃撃され死亡してからしばらく経ちましたが、いまだに割り切れなさを感じています。アフガンのためにあれだけ尽くした人がなぜ死ななければならなかったのでしょうか。
私はかつて日本のNGOを取材したことがあり、民族帽のパコールをかぶった独特の風貌の中村さんのこともよく知っています。普段はパキスタンで医療活動をしており、帰国して講演をすると億単位の寄付が集まることで有名でした。
饒舌ではなかったが、雄弁でした。何より語りに心がこもっていました。九州はアフリカ教育基金の会やカラモジアなど個性的なNGOが多い土地柄で、ペシャワール会も存在感がありました。
中村さんのことを考えるとき、NGOのパイオニアともいうべきひとりの牧師を思い出します。京都駅裏で野宿しているハンセン病患者や朝鮮人を支援し、日中戦争下に上海近くの太倉で中国人難民を支援した志村卯三郎(1904-2007)です。
第2次上海事変直後のあの時代に、多くの人の期待を担って京都大学の医学生や看護師など9人で「中国難民救済施療班」を結成、コレラやマラリアなど1万人を超える患者の治療に当たりました。
現地の中国人には大いに感謝され、志村の奉仕の精神はNGO、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)に引き継がれました。そのJOCSはネパールでハンセン病、結核の治療に当たり、「ネパールの赤ひげ」と慕われた岩村昇ら多くの草の根の人道支援者を輩出しました。
プロテスタント系バプテスト派のクリスチャンである中村さんも、スタートはパキスタンでハンセン病治療を志したJOCSからの派遣ワーカーでした。バトンはつながっているのです。