1枚の不思議な写真

ここに一枚の不思議な写真があります。上を向いた子どものいくらか火照った表情は命を燃焼させているような力強さと希望に満ちています。周りには白い線が勢いよく翼のように舞っています。作品のタイトルは「やわらかい翼」。美しい、しかし、それだけではなく何かを訴えてきます。
何でしょう?そう、歓びです。この子は今、遥かな天に向かって自らの生を高らかに歌い上げているように見えます。
撮影したのは写真家の田頭真理子さん。これは、ベートーヴェンの交響曲第9番の第4楽章で歌われるあの「歓喜の歌」を手話で歌っている場面だそうです。
手話で第9を歌う。あの白い線は、歓喜の歌の歌詞だったのです。手話ならぬ「手歌」。手話がわからなくても、確かに歌が聞こえてくるような気がしてきます。
どうしたらこういう写真が生まれるのでしょうか。田頭さんによれば、こうです。
オーケストラが第9を演奏し、健常者と視覚障がいの子らが歓喜の歌を声でうたうと、同時に歌詞が手話通訳され聴覚障がい者も手で歌を表現できるわけです。白い手袋をしますが、指先にライトをつけており、シャッターを1秒から4秒ほど開放することで手歌をうたう指先の光の軌跡が1本の線として撮影することが可能になるということです。
南米ベネズエラでのホワイトハンド・コーラスとの出合い
田頭さんが手歌を知ったのは2017年ですが、3年前、南米ベネズエラを訪問した時、エル・システマ(El Sistema)という団体が行っているホワイトハンド・コーラスに感動しました。
この団体は1975年、経済学者のアブレウ博士が始めた音楽の社会運動で、貧しい境遇にあったり、障がいのある少年少女を犯罪や暴力、差別から守りながら、音楽教育を通して健やかに育てることを目指しています。
子どもオーケストラや、中南米の四弦ギター、クアトロで編成する楽団もあるのですが、2014年に始まったホワイトハンド・コーラスでは聴覚障がいの子どもが白い手袋をはめてベネズエラの曲の歌詞を音楽的にアレンジしながらリズミカルに手歌をうたっていました。耳の不自由な子が音楽を楽しんでいるのです。
考えられない奇跡がおこっていることに感動し、日本の人たちにも伝えたいと思ったものの、手話だけに写真でこれを表現するのは簡単ではありません。音の壁をどう越えるか、歌詞をいかに可視化するか。
田頭さんは自分にはとても無理だと、悩みに悩みました。ところが、昨年の夏のこと、聴覚障がいの子の手歌をぼんやり見ていると、素早く動き回る手先の軌跡が目に残るではありませんか。あっ、これだ、とピンと来ました。指の軌跡を光の流れとして写真の中で表せないかと思い付いた瞬間でした。
第9の歓喜の歌はシラーの詩をもとにしていますが、写真として作品にする時は時間が短いので、そこに難しさがあります。因みに、「やわらかい翼」の写真の場合、白い軌跡が表現している歌詞はその通り「やわらかい翼」です。
歌詞によっていろいろ色も変えます。例えば、燃えるような「歓び」なら赤色といった具合です。写真に向いた歌詞を、コーラスの先生やコーチとあらかじめピックアップし、シャッタースピードを調整しながらチャンスを狙います。

歌詞は短くても、子どもたちの顔の表情が魅力的だし、音楽が入ることで体の動きもリズミカルになります。手歌の動き出しなども微妙に取り込むので写真に写った光の軌跡は思った以上に豊かな表現になります。
音の壁を越えた社会起業家
社会起業家という言葉を知っていますか。イノベーティブな手法で社会を変革する人のことです。エルシステマを設立したアブレウ博士は間違いなく社会起業家だし、この仕組みを日本に持ち込んだエルシステマ・ジャパンの菊川穣代表もその一人です。
「子どもたちは音楽を視覚化してくれている。写真では音楽を伝えられない。でも、彼らの音楽ならそれができる。写真を通して自然と音が聞こえてくるようになる」という田頭さん。音の壁を越えて歌を撮る彼女もまた社会起業家と呼ぶにふさわしい人と言えるのではないかと思います。
田頭さんはかつてクルーズ船に乗っていました。写真館で富裕層相手に記念写真を撮るのです。アジアから地中海を通り、地中海を回る北半球の旅です。楽しみもありましたが、1年で船を下りてしまいました。求めていたものがそこにはなかったのでしょう。
そんな折り、クラシック好きの田頭さんは2008年、エルシステマ出身で当時エーテボリ交響楽団の首席指揮者だったグスターボ・ドゥダメルが指揮する、シモンボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラの演奏会に行って感動、探していたものを見つけたのです。エルシステマ・ジャパンの菊川代表に連絡を取るまでに時間はかかりませんでした。
「新しい次元の音楽」の可能性
田頭さんは「ベートーヴェンが第9を作曲したのは晩年で耳がほとんど聞こえなくなったころ。歌詞つきの交響曲の作曲も初めてです。歓喜の歌の冒頭に彼が挿入した『おお友よ、このような旋律ではない!もっと心地よいものを歌おうではないか もっと喜びに満ち溢れるものを』」という歌詞も考えさせられるものがある。歌詞に込められた深い意味をあらためて考えるいい機会。是非、歌詞と私の写真をリンクさせてみてほしい」と話しています。
先週末、田頭さんは一泊二日の強行日程でロサンゼルスに飛びました。ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団のドゥダメルが音楽監督をしたベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」の公演に駆けつけたのです。このオペラは耳の不自由な人の手歌と歌手(健常者)の二重役者で舞台が構成された世界初のオペラですが、ここにベネズエラのホワイトハンド・コーラスも出演していたのです。
「聴覚に障がいのある人には音楽はできないのだという思い込みを見事に打ち破り、新しい次元の音楽を生み出していた。ホワイトハンド・コーラスの魅力と可能性を確認できた」と田頭さんは感動を新たにしました。
写真を通して障がい者と健常者の壁を壊し新たな地平を切り拓いた田頭さんの写真を集めた体験型写真展「第九のきせき」がタイミングよく4月29日から5月29日までの間、ダイアログ・ダイバーシティミュージアム「対話の森」(東京都港区海岸一丁目10番45号)においてダイアローグ・ジャパン・ソサエティとEl Sistema Connectの共催で開かれます。関心のある方は、手歌を体験してみてはいかがでしょうか。