記事のポイント
①緊急援助を必要とする現場は相変わらず多いが、日本のNGOは今どうなっているのか
②NGO業界の生き字引とも称される伊藤道雄さんを訪ねると、アジア・コミュニティ・センター21(ACC21)を設立し、活動を続けていた
③伊藤さんは「日本のNGOが一方的に人材派遣や資金援助するというのではなく、現地のNGOとともに企画段階から参加すること」の重要性を強調した
NGOの生き字引、伊藤道雄氏
ウクライナ侵略による難民発生やパキスタン洪水など緊急援助を必要とする現場は相変わらず多いが、日本のNGOは今どうなっているのだろうか。その解を求めて、NGO業界の生き字引、かつて取材したNGO活動推進センター(現国際協力NGOセンター=JANIC)の伊藤道雄・元事務局長を訪ねました。
伊藤さんはお元気でした。現在77歳。立教大学教授などを務めた後、アジア・コミュニティ・センター21(ACC21)を設立し、代表理事を務めていました。ユネスコ(国連教育科学文化機構)憲章の前文「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」を信念とする、この人らしい生き方です。
ACC21でいま力を入れているのが「フィリピンのストリートチルドレン支援」と「日韓みらい若者支援」です。実は伊藤さんは、40年前にマニラを歩いていて子どもたちにお金をせびられました。コインを出すと、これっぽっちでは足りないと、突然、ポケットに手を突っ込まれました。
振り払おうとその腕を握ってハッとしました。折れてしまいそうなほどか細く、眼は射るように冷たく光っていたのです。この体験が伊藤さんをNGO活動に駆り立てたのです。晩年を迎え、いわば原点に立ち戻ったというわけですね。
現在、 フィリピンでは路上で暮らす若者の自立を目指し、就職、起業に必要な知識や技術を学べる機会を提供しています。これまで支援した若者の6割が食品や雑貨販売などで自立しています。
日韓事業の方は一言でいうと語り場活動です。日本と朝鮮半島にルーツを持つ若者が参加、学習会、フォーラムなどを開いています。日本の植民地支配下にあった朝鮮半島に生まれ、ベルリン五輪のマラソンで日本代表として金メダルを獲得した孫基禎などを取り上げ語り合います。二国間の共通の歴史観を育み、それを創造的な未来関係づくりにつなげるのが狙いです。
遡れば、伊藤さんは1987年、国際協力を推進するNGO活動推進センターをNGO仲間と共に設立しました。オイスカ、アジア学院、曹洞宗ボランティア会、日本キリスト教海外医療協力会、日本国際ボランティアセンターなど11団体を集結させNGOのネットワークをつくり上げたのです。当時、伊藤さんは、公益信託アジア・コミュニティ・トラスト(ACT)の活動で頻繁にアジア各地に足を運び、国の復興に取り組むリーダーを支援していました。
汚い川の水でご飯を炊くような現場にも入り込みましたが、親しくなった現地の人たちから耳にするのは日本政府のODAに対する不満、批判ばかり。そこで人道的見地から困っている人に手を差しのべているNGO強化しかないと思いつき勉強会を開くなどしてNGOまとめることに成功したのです。
「NGOは皆、一国一城の主で、明治維新の志士のようにすがすがしい人ばかりだった」と振り返ります。ただ、自分のカラに閉じこもっている人もおり、苦労したそうです。「自己の確立、個の自立が大事です。自分の考えをしっかり持つと同時に他者に開かれ、その考えに耳を傾け、尊重し合う、そうした関係づくりが必要なのです。それが不十分なNGOもあり簡単ではなかった」
今につながる課題かもしれません。
NGOのアイデンティティに陰り
伊藤さんは「連続講義 国際協力NGO」(日本評論社)の中でNGOの発展の歴史を「1930年代後半(戦前)―日中戦争と中国人被災者への診療活動」「1950年代後半~60年代前半―戦後復興と国際社会への参加、宗教者のイニシテイブ」から始め「1990年代後半―阪神・淡路大震災とNGO・NPOの法制度確立」「2000~2003年―国際協力NGOが家庭の茶の間まで」に至るまで10段階に分けて説明しています。
ひとことで言えば、日本のNGOはアジアへの贖罪的な行為から始まり、カンボジア難民支援で若者の参加も増え、途上国の発展を支える大きな役割を果たしてきました。NGOが大学新卒者の就職先として人気を博すなど社会の注目を集め、政府や企業との連携を強めている。考えられないほどの進歩を遂げたNGO業界ですが、いま大きな転機を迎えています。
2010年以降のNGOについて、伊藤さんは次のような特徴を挙げています。