「収入は10分の1。それでも『命』を守りたかった」――山本太郎氏(俳優)インタビュー

これまで参加したデモの数は「数え切れない」という山本太郎氏(写真・福地波宇郎)(撮影協力・AUX BACCHANALES KIOICHO)

福島第一原子力発電所の事故後、いち早く「脱原発」宣言をした俳優・山本太郎氏。事務所を辞めて収入は10分の1に減ったが、「人間に戻った」感覚を取り戻せたという。脱原発デモに参加するなど原発の危険性を訴え続ける山本氏に、その真意を聞いた。(聞き手・編集部=吉田広子、赤坂祥彦)

■きっかけは大震災、グリーンピースと母

――原発やエネルギー問題に興味を持たれたきっかけは何でしょうか。

山本:2011年3月11日に起こった東日本大震災です。それ以前は、原発については、発電で生成される核のゴミを地下に埋めて100万年単位で管理しなければいけないという程度の知識しか持っていませんでした。

震災以降、国際環境NGOグリーンピースのホームページ※などに掲載されている情報を調べ進めていくうちに、原子力発電は持続可能なエネルギーではないと気付きました。
(※編集部注: http://www.greenpeace.org/japan/ja/)

――グリーンピースをご存知だったということは、元から環境問題に対する高い関心があったのですね。

山本:僕の実家では寄付を行うのが当然という環境でした。お年玉のうち、いくらかは親に徴収されて、ユニセフや赤十字への寄付にまわされたのをよく覚えています。

8年前に母が「良い寄付先を見つけてきた」というので話を聞いてみました。それがグリーンピースでした。当時はグリーンピースに対しては捕鯨に反対している環境団体という程度の知識しかありませんでした。

それまでは自分の中では捕鯨反対をしている団体に過ぎなかったグリーンピースが、海洋生態系や森林の保全など多岐にわたる活動を展開していることも、企業にアプローチし、実際に状況を改善してきたことを知りました。

母は「人道的支援に対してはお金が集まるけれど、環境問題に対してはお金が集まりにくい」とよく言っていました。だからこそ、僕はグリーンピースに寄付しようと決めました。核についても8年前に出会ったグリーンピースのホームページから気付きを得ました。

ただ、当時28歳だった自分は、エネルギー問題について声を上げづらい立場にいました。自分の仕事に影響があると分かっていたからです。映画「バトルロワイヤル」を撮り終えた2年後です。仕事は順調でしたし、コマーシャルにも出演していました。社会問題に対して、声を上げるには、失うものが余りにも多いと感じていました。

ですから、声を上げられない自分の代わりに行動している団体に寄付をしてきました。それでも、原子力に対して深刻な危機感を抱いていた訳ではありません。

■猛烈に「生きたい」気持ちが湧き上がる

――3.11を経て、どのように意識が変わったのでしょうか。

山本:地震続き津波が発生して原子炉の冷却装置が停止しました。それを見て「死ぬかもしれない」と思いました。同時に、猛烈に「生きたい」という欲求が湧き上がってきました。

それまでは「生きる」ということを突き詰めて考えたことがありませんでした。「遅かれ早かれ死は訪れる。自分はそれを受け入れる」と腹を括ったつもりでいました。でも、違いました。実際に、生き続けるのが困難な状況に置かれた時に、猛烈に生きたいという気持ちが沸き上がりました。びっくりしました。

その直後に考えたことは、「国は、国民に事実を伝えるだろうか」ということです。事故後の対応でこの国の本当の姿が露(あらわ)になると思い、報道に接していました。案の定、政府や東電は「(放射能)はただちに人体への影響はない」と発表してきました。

あくまで国民を欺くつもりでいる国の姿勢が分かりました。その事も「生きたい」という気持ちに拍車をかけました。DNAレベルでの叫びですね。動物として本能的に「生きたい」と感じたのでしょう。

■脱原発宣言することで「人間に戻れた」

――始めて、「脱原発」を主張した時はどういった心境でしたか。

山本:怖かったです。勇気がいりました。発言すれば、確実に仕事がなくなるのは目に見えていましたから。食いぶちがなくなるのは一番怖いですよ。でも、いい役者になるという夢も同時にありました。そのためには10年後も生きていなきゃいけない。

日本は地震大国で、僕たちは地震活動期に生きています。それなのに原発は稼働している。国は国民の命を見捨てているとしか思えません。今後、日本人が生き延びるためには、原発を止める以外ありません。

仕事がなくなる。それでも声を上げるべきか。それができるのか。僕自身も毎日、自問自答を繰り返しました。

「お前は上げるべき声を上げずに、今の生活を守る気か。それは、原子力推進派や、自分の利益のために嘘の情報を流している人と同じじゃないか」。その問いを自分に投げ続けました。

「この先、健康被害が広がったときに、どう自分を騙すつもりだ」「死ぬまで、後悔せずに、自分に嘘をつき続けられるのか」を問い続けました。そして4月9日にツイッターで原発反対を表明しました。声を上げた瞬間、「人間に戻れた」と感じました。

――その後、事務所を辞められましたね。

山本:原発反対を表明したわけですが、ツイッターで意思表示をしたり、デモに参加したりする程度で、派手な行動は起こしていませんでした。取材陣が待ち構える中で、闘志を剥き出しにして、抗議をするようになったのは文科省前がきっかけです。

要は、被曝限度を1ミリシーベルトから20ミリシーベルトまで引き上げて、子どもたちに危険を押し付けた。子どもたちの感受性は大人と比べて3~10倍です。子ども達に与えた毒の大きさ。平気で子どもたちの命を犠牲にするやり方に我慢ができませんでした。

子どもたちには死んでもらいますという政策です。「棄民」に他なりません。それを平気で安全ですといって、とやってのける。その国の姿勢に対して、怒りが爆発しました。

■僕が失ったものは「収入だけ」

editor

オルタナ編集部

サステナブル・ビジネス・マガジン「オルタナ」は2007年創刊。重点取材分野は、環境/CSR/サステナビリティ自然エネルギー/第一次産業/ソーシャルイノベーション/エシカル消費などです。サステナ経営検定やサステナビリティ部員塾も主宰しています。

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