ミラーワールドの憂い

「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(59)

 疲れ切って自宅マンションにたどり着いてから一週間。昨日あたりから咳、熱がひどい。慰めは愛犬のチョロだけだ。ちょっとした気まぐれからクルーズ船に乗ったばかりにこれ以上ない悲傷を経験した。船内で感染症が発生、700人以上が陽性になり死者も出る騒ぎになった。ようやく解放されたと思ったら、検査結果が判明するまで2週間の自宅待機だ。
 外は冷たい雨が降り続いている。女のひとり暮らし。誰に迷惑をかけるわけでもないが、巣ごもり生活はやはりつらい。食料はインターネットで取り寄せ。マスクと手袋で完全防備の配達員はドアの前に荷物を置いて逃げるように去っていく。皆がお互いに警戒し合う、呪われた時代のニューノーマルなのである。
 ベッドに横になっていると、社会から切り離された異世界で生きているように感じる。まるで流刑ね、と自嘲気味にチョロに話しかけてみるが、困った顔でおざなりに尻尾を振るだけだ。戦友ならぬ船友がズームで集まろうと言ってきた。ひとりひとりがデジタル化された世界だ。パソコン画面に並んだ20人ほどの顔は笑っているが、目を凝らすと不安と怯えを湛えている。髪が乱れ頬の肉が削げて骸骨のようだ。熱のせいか頭がぼんやりしてくる。
 ひとり懐かしい人がいると思ったら、去年別れた前の夫だった。奇妙だ。紛れ込んだのだろうか。どこかよそよしい。一緒に暮らし、あれだけ毎日顔を合わせていた日々が嘘のようだ。

挿絵・井上文香
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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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