明治学院大学の支援は形を変えて今も続いている。特に喜ばれた二つの活動がある。
ひとつは、岩手県大槌町で、忘れかけていた方言を集めて作成した吉里吉里カルタ。もうひとつは「都会の子どもに津波のことを知ってもらいたい」という陸前高田の人たちの声に応えて、学生が東京の小学生をバスツアーで連れていきホームステイで住民の人たちと交流したことだ。
考えてみれば、当時の東北は過疎化、高齢化が進み疲弊していた。地方と都会は分断され、大量生産、大量消費の経済メカニズムの中で生産者と消費者も分断されていた。政治も社会もいたるところで対立と混乱をきたしていた。 そんな時、襲ったのが東日本大震災であった。
押しかけたよそ者が現地と融合
閉塞感に包まれた都会の若者たちがどっと被災地に押しかけた。ところが、地方のコミュニティは閉鎖的である。めったによそ者を入れてくれない。ましてやボランティアだ、支援者だといっても独特の風習、慣習の中で地道に生きている社会に土足で入ってくる都会の若者は闖入者以外のないものでもなかったに違いない。
両者は激しくぶつかり合った。間にそびえる壁は高いように見えたが、徐々に風穴が空いた。それは、地元の文化を尊重し、地域の課題を意識した心の交流ではなかったか、吉里吉里カルタや小学生のツアーのような。
震災では想像を絶するほども若者が被災地に入り込んだが、今も活動している。今もというより、都会から東北に移り住んだ人も多い。社会起業家として経済を回す人も出ていた。各地で新たな融和と融合を生み出し、コミュニティというものを知らなかった都会の若者が東北で生き返ったともいえる。地震、津波がなければ見えなかった風景がそこにある。
「官」が行う復興のためのハード支援を否定するつもりはないが、「民」でなくてはできない心の通った支援の強みはここにある。