「ブン屋」の約束--こころざしの譜

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■雑誌オルタナ86号:フラッシュ・フィクション「こころざし」の譜(50)

挿絵・井上文香

どの世界にもその道を究めた者には人の心を波立たせる物語がある。

鎌倉の古刹は三日続きの霧雨に煙っていた。長く勤めた新聞社を定年で退職し、しぼんだ風船のような毎日を送る時任雅彦が、墓前に額ずくとさすがに気が引き締まる。

その昔、駆け出し記者として配属されたのは警視庁記者クラブで担当は捜査一課だった。毎朝、捜査一課長の会見があった。

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太い眉に鋭い光を宿した眼。剣道の達人だという一課長、菱川源蔵の顔に緊張の色が浮かんでいる。懸案の事件に進展があったのだろうか。一瞬、肩に力が入ったが、「今日は話すことは特にないな」。その一言で部屋の空気が緩む。ただ、それを言葉通りに受け取る記者はいない。大事な局面では口は固くなるものとわかっている。

定例会見が終わると一旦席を立った記者連中が課長室の前に競って列をつくる。各社が事件に関する持ちネタを個別に課長にぶつけ反応を探るのである。会見で質問すればよさそうなものだが、それはしない。手の内を他社に晒すことになるからだ。事件記者の競争は激しい。特ダネをスクープできればいいが、逆に抜かれたりすると即左遷だ。そんなせめぎ合いに耐え切れずノイローゼになる記者も珍しくない。

何か匂う、と時任も列に並んではみたものの取材不足で質問が出てこない。「なんだ、聞きたいことはないのか」と菱川課長はいぶかり、不意に声を高めると「つぎ」とドアの方を見やった。待っていた大柄な記者がすかさず突進してきて「おい、早くどけよ」と時任のイスの背を押す。その時、課長がドスのきいた言葉を発した。

「時任さん、あんた記者に向いてないんじゃないの?」

身体が震えた。とんでもない所へ来てしまったと時任は衝撃を受けた。新人時代を博多でのんびり過ごしたせいで新聞社は楽しい職場だと思っていたがどうやら勘違いだったようだ。案の定、翌日の朝刊で他社に特ダネをすっぱ抜かれた。

左遷は免れたものの危機感に襲われた。夜回りで一課長の自宅に足しげく通ってみたが上にあげてもらえない。応対した若い女が玄関口で「もう夜も遅いわよ。ブン屋には会いません」とにべもない。他の刑事のところでも手土産は突っ返されるし、帰れと水をまかれたりした。

取材先に食い込んだ記者は、刑事が帰る前に風呂に入りビールを飲みながら子どもの勉強を見てやる。そこに刑事が帰宅して捜査情報を漏らしてくれる。そんな逸話も耳にしていたが彼我の差にうろたえた。

悩んだ挙句、遠縁の元記者に相談してみることにした。時任をジャーナリズムの世界へ誘った孤高の人である。「記者というのは心のやり取りをする商売だ」と切り出した助言は身に沁みた。

取材先の家の前に夜回りの車をデーンと停めて正面玄関から図々しく入り込み、さあ話せと言わんばかりの無神経な記者は一番嫌われる。社会正義だ、社会の木鐸だなどと思いあがるな。刑事は記者と接触すること自体禁止されている。情報を漏らせば捜査に支障を来す。もし、取材に協力してくれるとしたら、記者を人間として認め信頼した時だ。

ある記者は夜回りで毎晩、刑事の家の近くの電柱に寄りかかって帰りを待っていた。刑事は会うのを避けていつも裏口からこっそり帰宅した。そんなある日、刑事は電柱の一部が黒く変色しているのに気づく。ちょうど記者の頭が当たる部分だ。なんと頭の脂で色が変わっていたのだ。その無骨な熱意でこの記者は信頼を勝ち得たのだという。

「どうしたら信頼を勝ち取ることができるか、必死で考えろ」。老ジャーナリストにそう言われた。

時任は思った。これは戦争だ。勝つにはまず敵のことを知らなくては。調べてみると、妻を若くして亡くしているが、大変な愛妻家だったらしい。今は一人娘を男手一つで育てている。玄関で応対したのは娘だったのだ。時折勉強机に向かうシルエットが外から見えた。チャイムは受験勉強の邪魔になるだろうと、課長を待つのは家の外と決めた。家族を大事にする菱川の価値観を共有する。大げさにいえば同じ人生を生きてみようと考えたのである。すると足は自然に亡き妻が眠るお寺に向かった。同じ捜査官だった妻は強盗事件の犯人を追跡中に殉職したと聞いた。命日に墓前に菊とリンゴを供えた。

翌年も命日にお寺に行った。誰が墓参りに来たのか調べたのだろう。課長はいくらか取材に向き合ってくれるようになった。特ダネをくれることは無論なかったが、取材の基本や仕事への取り組み方を学ぶことができた。そのころには課長の人間としての大きさ、生き方、仕事への真摯さを理解することができるようになっていた。

三年目。墓参を終え寺を出た所で菱川に声をかけられた。思いがけないことだった。

「よければ一杯やろうか」

娘が新聞記者志望だ、と打ち明けられた。

「気の強い女なんだがね、記者に向いているだろうか」と神妙な顔で尋ねるので、「向いてないんじゃないの?」と冗談めかして返し二人で笑い合った。ある事件のガサ入れの日を探っていた時、彼女が「明日、父は早いわよ」とこっそりつぶやいてくれたことは内緒にしてある。

そんな事情から大学の合格発表は気になって見に行った。新聞学科に彼女の名前を見つけ振り向いた時、娘と一緒の菱川と目が合った。「よかったですね」と声をかけると父親の顔でお辞儀をされた。隣ですましていた娘は大学を卒業して時任と同じ新聞社に入った。時任の退職のセレモニーで花束を贈ってくれたのが彼女だった。

「時任先輩のような敏腕記者になれますように。亡き父と母に代わって見守ってください。ただし昭和の汗臭い取材は御免です」と花束に添えられた手紙に笑みがこぼれた。

時任の墓参は今も続いている。約束通りお嬢さんを厳しく鍛えましたよ。記者の仕事は心のやり取りだ。そんな甘い取材じゃ、親父さんに怒られるぞって。

雨がやみ、見上げると薄曇りの空からうるんだような光が墓石を照らしていた。(了)

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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キーワード: #オルタナ86号

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